1119 personality may change depending on languages

たまには日本語で振り返ろうと思う。今年の六月の記録を読み返していたが、かなり深いところまで思考が巡っている。やはり英語だと微妙な表現ができないし、思考と文字に起こす作業にタイムラグが生じてしまうのでspontaneouslyにいかない。だからかなり稚拙な文章になってしまい、結果として重要なことを書きそびれてしまう可能性があるのだと思う。同じ人でも話す言語が変われば性格も変わる、というのは有名な話だが、最近本当にそうだと思う機会が多い。特に日本語を勉強している学生が英語やオランダ語ではなく、日本語を話し始めた時にそれを感じる。原因は幾つか考えられるように思う。まずは、自信がないからおどおど話してしまう(ように見える)から、というもの。これは事実そうだろう。自分が英語を話すときでもふと気づいたら目線が下がっており、相手の顔を見れていない時がある。二つ目は思考以外の部分で労力を回す必要があるということだ。他言語による会話においては「他言語で話す相手・内容を理解すること」「他言語で的確に表現すること」この二つの動作が同時に要求される。わずかな時間で相手の発言内容を理解し、思考し、頭の中で構築し、実際に発言する。この過程を分解すると、他言語で、すなわち非母国語での会話において思考する時間や労力が短くなることは当然と言えよう。


これは会話のみならず日記を書く場合にも当てはまるのかもしれない。自分の考える範囲、というのは英語を使うことで狭くなるのかもしれない。自分にとってこの気づきはかなり驚きであり、たまには自分の思考を深め記録するために日本語でと考えたわけだ。今日はcompatibility of circumcision with children`s rightsについてのレポートを書いていた。正確には論文を読みあさっていた。なかなか進まなかったがこれも全てを無理に英語で行おうとせず、レポートの骨格はまず日本語で行なっていいと思う。難解な事象を英語で捉えて英語でまとめ上げる作業を直接的に行うことはかなり困難。これも上にあげた理由と同じだろう。まずは日本語でまとめる。そう行った作業を挟んだ方がレポートの要旨もまとまりやすいし最終的な成果物も効率的に質の高いものになりうると思う。



夜は「シンドラーのリスト」という映画を見た。ホロコーストを題材にした映画で最も有名なものだ。ユダヤ人迫害の歴史から、民主主義的過程を経てナチス政権が台頭したというアーレントの全体主義的考察、最近のイスラエル情勢やミャンマーのロヒンギャ問題まで様々なことが頭に過ぎったが、一番感じたのは「生の有限性」である。いつどこで無くなるのかわからない、そんな有限性を帯びた生しか持ち合わせていない我々が「死の恐怖」から逃れるためにできることは、毎日を全力で生き、輝かせることではないだろうか。わずか70年前にあんなにも理不尽な状況下で無下に命を奪われた人々が600万人もいる。その事実を強く認識させると同時に、今を生きる一人の人間として最低限の使命、すなわち「今を全力で生きること」これを実践せねばならない。この世界には自分の力ではどうにもならないような複雑怪奇な難題で溢れている。それらに立ち向かい、絶望し、それでも立ち上がり解決に努める。そんな超人的なことはできなくても、毎日を全力で生きる、これは誰にだってできることに違いない。ゼミの教授が好きな夏目漱石の言葉にこういうものがある。

自由と独立と己とに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう


自由を勝ち得た我々にしかない苦悩があるのは確かだ。でも、そんな悩みすら抱えるまでもなく生を抹消された人々を思うと、現代人の寂しさなんて大したものではないのではないか。一人の今を生きる人間として、先人に背を向けて生きるような真似はできない。

Once in a LIFE time opportunity

Japanese studying in the Netherlands from September 2017.

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