1125 Auschwitz-Birkenau concentration camp

今日は朝からアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所に行って来た。クラクフ中央駅からバスに揺られること1時間半で到着した。やはりかなり都心部からは離れた場所に位置しており、あたりには何も見当たらなかった。日本人公式ガイドの中谷さんと合流し、出発だ。館内案内料金は50ヅオチ。日本円にして1500円ほどだ。今日は土曜日であるためか20名前後の日本人の方と一緒だった。


「work makes you free」と書かれた入口の門を通り抜けると、いよいよそこは強制収容所敷地内である。11月のオフシーズンにも関わらずかなり多くの観光客が見受けられた。しかし、ガイドの方曰く平日はもっと混んでいるとのこと。ヨーロッパ中から小・中学生が平和学習に訪れるからだ。平和共存を掲げるEUの教育の一環として採用されているらしい。教育というのはマジックワードであり、何に対する解決策としても提示されがちであるが、二度と将来同じ過ちを繰り返さないための最善の方法であると言えるだろう。教育、学問の本質は「歴史を学び、現在や未来に対する洞察を深める」ためである。第二次世界大戦において600万人ものユダヤ人がナチス政権下で不合理に殺害され、そのうち150万人はこのアウシュビッツで殺された。この事実は変わらないが、この事実から我々は学び取り、次世代に生かすことはできるのではないか。EUが徹底して平和教育に力を入れているというが、こうした周辺国との平和に対する教育の方向性を擦りわせるということは非常に大切であると思う。日本も周辺諸国との対立を深めるだけでなく、先の戦争に対する反省を踏まえ、ある程度各国が妥協した上で共通の教育方針を掲げる必要があるのではないか。これが理想論であり、敗戦国であり周辺国に侵略を繰り返した日本が中心となって推し進めるのはかなり困難であるかもしれない。しかし、政治家や官僚にはこの辺りを期待したい。私の好きな哲学者ハンナ・アーレントも著書「全体主義の起源」において、全体主義が強制収容所という形で結晶化した現象の諸要素を、具体的に現れた歴史的文脈の中で分析した。そうして要素を明らかにすることで、将来それらの要素が再び全体主義へと結晶化しようとする時点で、人々に思考と抵抗を促すことができると考えたからだ。



彼女の分析によると、ホロコーストを可能にした全体主義的なナチス政権は通常の民主主義体制下において台頭したものであり、大量殺人を行ったのもアイヒマンを始めとする一般人であったということだ。こうしたホロコーストの主体をアーレントは「凡庸な悪」と形容している。資本主義的な社会において、以前のような共同体的精神が失われつつあり、人々は「活動」すなわち自分の意見を表明しアイデンティティーを表現する機会が失われている。こうして人々は機械のように個性を消して働くようになり、自分の頭で考える癖をしなくなり、アイヒマンのような凡庸な悪に成り下がるのであろう。誰しもが「凡庸な悪」になりうることを認識した上で、そうならないように自分の頭で物事を考え、発信する癖を付けなければならない。現代社会において、インターネットに情報が溢れており、AI、iotなどの進歩もあり現代人は思考することを怠っているように思う。全体主義的なホロコーストこそ起こらないものの、アーレントは個々人の思考停止に対して警鐘を鳴らしているのではないかと思う。ガイドの方もアーレント的な立場をとっているように思えた。人類史上最悪と呼ばれた事態が生じたのは、ヒトラーやナチスの責任が大きいのは言うまでもないが、民主主義によって彼らに票を投じた一般市民に責任があるのも確かだ。いや、むしろ今後民主主義体制下でこのような事態が発生しないためには、個々人が自ら思考し、行動を続ける必要がある。だから、中谷さんはあまりヒトラーの話はしなかった。「我々は」どうすべきか、「日本は」今後どのように他国と協調を図っていくべきか、そういった質問を投げかけることで、事実を述べるのみではなく、我々に自分ごととして考え、行動することを促しているのだと思った。



事実としてかなり衝撃的だったのは、アウシュビッツに連行された人のうち75-80%は収容されることもなくガス室に送られ命を奪われたということだ。ナチス側の意図は未だに不明確だ。殺害を目的にしたのか、それとも労働力の確保を目的にしたのか。後者であればやり方が非効率すぎるように感じる。そもそも彼らとしても意図なんか理解していなかったのではないか。彼らは「移住」という言葉を使い、「殺害」という言葉は一切使わなかったようだ。民族廃絶という不合理な目的を掲げ、強制収容所のガス室という超効率的な手段を持って大量に殺害を行なった。当時のナチスの意図は未だに腑に落ちないことばかりだ。ドイツはその当時世界有数の技術大国であったから特にわからない。また、そのドイツと同盟国として世界大戦に参戦した日本にも少なからず責任はあるのではないか。過去の日本人が加担したものに対して、未来の世代はどこまで責任を担うのか。考えるべきことばかりである。僕の友達はアウシュビッツ強制収容所は人間が持つ悪を含めた全てが具現化したものではないかと感想を漏らしていた。確かにそうなのかもしれない。



そもそも、キリスト教はユダヤ教から分離したものだ。当然ユダヤ教徒はイエスキリストの存在を認めていない。こうした2000年以上に渡る宗教的な対立も要因の一つであろう。選民思想を掲げ、唯一神ヤハウェ以外認めないユダヤ教徒に対して、信仰すれば誰もが救われるとして後発にして支持者を拡大したのがキリスト教だ。次第にヨーロッパにおいてはキリスト教が過半数に支持されるようになり、協会が各地域の政治を握るようになる。フランス革命以前、アンシャンレジームを始めとする階級制が敷かれ、その中でユダヤ教徒は最下層に位置付けられた。迫害されながら、自分たちの国を持たないながらも、自らの文化を絶やさまいと生き残りを続けたユダヤ民族。自らの国土を持ち、歴史上迫害の危機になかった日本人に彼らの哀しみの歴史を理解することは不可能かもしれない。しかし、我々がこうして他民族の歴史に興味を持ち、時間とお金をかけて足を運び学ぼうとすることは非常に意義あることだと中谷さんはおっしゃっていた。昨今深刻化するイスラエルとアラブの中東に置ける対立において、イスラエルは自らが受けた迫害紛いのことをアラブに対して行っていることがあるという。それは自らの民族の心の傷が癒えていないからであり、その傷は多くの人が興味を持って関心や理解が深まるにつれて、ユダヤの人々の許しも拡大し、徐々に傷も癒えていくのではというものであった。国際問題を理解するには様々な事象を鑑みる必要があり、決して容易ではないことを認識した上で述べるが、イスラエルが強行的な軍事手段を採り、アラブ人の国土を奪い、難民を発生させていることは事実である。「自分がされたら嫌なことは他の子にしない」そんな風に子供の頃、よく母に怒られたものだが、まさに今イスラエルが行っていることは「自分がされた嫌なこと」に違いない。過去の悲惨な出来事を許せるようになるのは本当に時間がかかるが、遠く離れたアジア人が興味を抱き、実際に訪れ考える、その行為自体が少しでも許しに繋がるのではないか、中谷さんはそのように語っていたしその通りであると思う。



独裁体制と比較した場合、近代西欧社会において理想的とされる民主主義体制下で、ホロコーストが実施された。このことは民主主義に内在する危険性を表出させた。最近のBREXITやトランプ政権などポピュリズムなどの観点からも民主主義限界論や批判論が述べられている。プラトンが述べたように民衆の理性は信用に足らないので、一部のエリートが社会を統治するのが望ましいのであろうか。そんな風にも思ってしまう。しかし、(少なくとも制度上は)全員で物事を決める民主主義という政治体制の危険性を認識した上で、その有用性や可能性について私は期待したい。個々人が持つ理性の可能性に賭けたい。そう強く思う。現に戦後72年間日本は戦争に加担していない。「何も起こっていない」ことが何よりも民主主義の成功と言えるのではないか。精神の、すなわち理性の発展こそが人類の進歩であり歴史である。歴史から学び、他人への思いやりを持つこと。在り来たりなことしか言えないが、ますます激動する人間社会においてこの精神は間違いなく重要だと思う。



アウシュビッツ強制収容所内には多くの写真が展示されている。大量の靴や櫛、髪の毛が写された写真の展示が多かった。個人的にはそこにあまり恐怖を感じなかった。これは自分の想像力が欠如しているためであろうか。大量殺害とは自分の日常とかけ離れたものであり、大量の靴や櫛の写真を見てもなかなか彷彿されなかった。しかし、ガス室内部のコンクリート塊からは殺伐とした雰囲気を感じたし、身の毛がよだつ瞬間であった。70年前にここで100万人もの人々が不条理に命を奪われた。犠牲者の冥福を祈ると同時に、ここに立って者としての平和構築責任を強く感じた。ナチスは撤退の際、証拠隠滅のためにほとんどのガス室をダイナマイトで爆破したため、今はほとんどが瓦礫の状態だ。しかし、ビルケナウの方ではガス室への入り口が残っていたり、一部爆破する余裕がなかったところが残っている。ビルケナウ収容所はアウシュビッツからバスで5分ほどのところにあり、アウシュビッツよりも開けた場所にあった。鉄道の線路が敷地の中央に敷かれており、ヨーロッパ中から大量のユダヤ人を乗せた汽車がここまでやってきた。汽車から降りたユダヤ人らは医者から顔色を判断され、健康だと判断されたもののみが収容所内での強制労働へと送り込まれる。それ以外の大多数はそのままガス室に送り込まれ殺される。運よく生き残れても三段ベットで一段あたり5-6人という過酷な状況で過ごさねばならない。今日のクラクフ4℃。ダウンとセーターを着込んでいても寒さが身にしみる。そんなクラクフの冬をあんな掘っ建て小屋で過ごした。その様子は「夜と霧」に描かれている。もう一度読み直す必要を感じた。絶望の中蠢く人間の生死が詳細に描写されていた。自分が普段の生活で感じる不合理など彼らと比べると不合理ではない。そんなふうに思わせてくれる。また、このビルケナウの線路横では白の巨塔が撮影されたことでも有名。自分のキャリアか患者の尊厳、どちらを取るかで唐沢寿明演じる財前が苦悩するシーンが撮影されたようだ。



今回の訪問を経て、民主主義や人間の理性への不安や危機感が募ると同時に、逆にそれらの可能性についても考えて行きたいし、模索して行く必要があると思った。とにかく「凡庸な悪」にならぬよう思考を止めてはならない。生活が豊かになり便利になる中で、また人間の思考停止を根源とする事件が起こらぬように。

Once in a LIFE time opportunity

Japanese studying in the Netherlands from September 2017.

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